| 1878年 |
| ドーム[Daum]の創業者、ジャン・ドーム(Jean Daum)は、かつてフランスのナンシーで公証人であった時のつながりで「ラ・サント・カトリーヌ・ガラス工場」の経営をすることになり、後に「ラ・ヴェルリ・ド・ナンシー」としてガラス工場の操業を開始。 |
| 1879年 |
| 長男オーギュスト・ドーム(Auguste Daum)が父ジャン・ドーム(Jean Daum)を助けるために会社経営に参画。 |
| 1883年 |
| 社名を「ドーム・エ・フィス」(ドーム親子)Daum et Filsと定める。 |
| 1885年 |
| ドーム[Daum]の創業者、ジャン・ドーム(Jean Daum)が没。長男オーギュスト・ドーム(Auguste Daum)が経営者となる。 (1886年エミール・ガレが木工家具工房を開設。) |
| 1887年 |
| オーギュスト・ドーム(Auguste Daum)の弟アントナン・ドーム(Antonin Daum)が入社。 (1889年の第4回パリ万国博覧会で、エミール・ガレがガラス部門でグランプリ、陶器部門で金メダル、家具部門で銀メダルを獲得。) |
| 1891年 |
| エミール・ガレの成功に刺激され、美術工房(アトリエ・ダール)Atelier d'artを設ける。 最初の商品カタログを発行。高級グラス・セットの製造を始める。 |
| 1893年 |
| シカゴ万国博覧会に参加し、カメオ・ガラスで特別無審査出品賞を受賞。 社名を「ドーム・フレール et Cie」(ドーム兄弟)Daum frère et Cieに改める。 |
| 1894年 |
| ナンシー装飾美術展に出品。リヨン博覧会で金メダル受賞。 フランクフルト、ストラスブール、パリ(パラディー通り32番地)に委託販売所を設ける。 |
| 1895年 |
| ボルドー博覧会で佳作に選出。 |
| 1897年 |
| ブリュッセル万国博覧会に出品。 オーギュスト・ドーム(Auguste Daum)が、レジョン・ドヌール・シュヴァリエ勲章受章。 |
| 1900年 |
| 第5回パリ万国博覧会、ガラス部門でグランプリを受賞しアール・ヌーヴォーを代表する工房となった。 アントナン・ドーム(Antonin Daum)が、レジョン・ドヌール・シュヴァリエ勲章受章。 |
| 1901年 |
| ナンシー派(芸術産業地方同盟)が結成され、エミール・ガレが会長に就任し、アントナン・ドーム(Antonin Daum)は副会長に就任。 |
| 1903年 |
| 「ナンシー派展」(パリ・マルサン館)に出品。 ドーム[Daum]ならではの技法パート・ド・ヴェールの量産を目指す。 |
| 1904年 |
| セント・ルイス万国博覧会に出品。 (1904年エミール・ガレ死去。) |
| 1906年 |
| この頃から展示会にパート・ド・ヴェールを出品。 |
| 1909年 |
| 長男のオーギュスト・ドーム(Auguste Daum)が没。次男のアントナン・ドーム(Antonin Daum)が社長に就任し、社名を「ドーム&Cie」Daum et Cieに改める。 「フランス東部国際展」(ナンシー派)展に出品。ワルターのパード・ド・ヴェールによるステンドグラスを展示。 |
| 1911年 |
| 三男のポール・ドーム(Paul Daum)がナンシーの物理化学学院を卒業し入社。 |
| 1914年 |
| 第一次世界大戦の勃発で、多くの従業員が動員され、操業を中断。 |
| 1915年 |
| 操業再開。 カサブランカ(モロッコ)の展覧会に出品。 |
| 1916年 |
| ドーム[Daum]の創業者、ジャン・ドーム(Jean Daum)戦没。 |
| 1922年 |
| マルセイユ植民地博覧会参加。 |
| 1925年 |
| アール・デコ博覧会に出品。 アントナン・ドーム(Antonin Daum)が、レジョン・ドヌール・コマンドゥール勲章受章。 コワマールに第2工場「ラ・ベル・エトワール工場」を開設。 会社を有限会社化。従業員数は500名となる。 |
| 1930年 |
| アントナン・ドーム(Antonin Daum) が没。ポール・ドーム(Paul Daum)が社長に就任。 アントナン・ドーム(Antonin Daum)の長男ミッシェル・ドーム(Michel Daum)が取締役に選ばれる。 |
| 1934年 |
| 不況のため「ラ・ベル・エトワール工場」を閉鎖。 |
| 1935年 |
| 大西洋横断豪華客船「ノルマンディー号」に透明クリスタル製グラスを納める。 |
| 1937年 |
| パリ国際博覧会出品。ポール・ドーム(Paul Daum)が陶器ガラス部門の審査員となる。 |
| 1938年 |
| ポール・ドーム(Paul Daum)、アンリ・ドーム(Henri Daum)、ミッシェル・ドーム(Michel Daum)の三頭体制から ポール・ドーム(Paul Daum)ひとりの経営に移行。 9月に戦争動員のため、しばらくガラス窯の火を止める。 |
| 1939年 |
| 8月末の戦争総動員でポール・ドーム(Paul Daum)もミッシェル・ドーム(Michel Daum)もナンシーを離れる。 後にポール・ドーム(Paul Daum)のみ動員を解かれ操業を再開。 |
| 1943年 |
| ポール・ドーム(Paul Daum)、レジスタンス活動の容疑で逮捕。 |
| 1944年 |
| 2月、ポール・ドーム(Paul Daum)、ニエーズ・ブレム収容所で没。 アンリ・ドーム(Henri Daum)とミッシェル・ドーム(Michel Daum)が経営を引き継ぐ。 |
| 1945年 |
| 9月、工場を再開。 オーギュスト・ドーム(Auguste Daum)の孫ジャック・ドーム(Jacques Daum)が商科を卒業し入社、パリの販売所の責任者となる。 アントナン・ドーム(Antonin Daum)の孫アントワーヌ・フロワッサール(Antoine Froissart)が入社し、新しい窯の建設を監督。 |
| 1947年 |
| 12月の洪水に襲われ甚大な損害を被る。 |
| 1948年 |
| ミッシェル・ドーム(Michel Daum)のアートディレクションでホット・フリー・ワークによる純度の高い透明クリスタル作品をつくる。 「芸術工房」(アトリエ・ダール)を「スタディー・オフィス」に一新。 透明クリスタルの作品は以後20年間ドーム[Daum]の看板となる。 ナンシー市内エレ通り22番地に路面店をオープン。 |
| 1950年 |
| ミッシェル・ドーム(Michel Daum)、レジョン・ドヌール勲章受章。 |
| 1951年 |
| マルサン館のガラス芸術展に出品。 |
| 1960年 |
| アンリ・ドーム(Henri Daum)引退。ミッシェル・ドーム(Michel Daum)がひとりで経営を監督。 |
| 1962年 |
| 4月、有限会社から株式会社に組織替え。 |
| 1965年 |
| 4月、ミッシェル・ドーム(Michel Daum)引退。 ジャック・ドーム(Jacques Daum)が社長に就任。 |
| 1966年 |
| 熱間形成による透明クリスタル作品を発表。 |
| 1968年 |
| パート・ド・ヴェール技法を復活させる。製造部長アントワーヌ・フロワッサール(Antoine Froissart)が中心にパート・ド・ヴェール技法開発にあたる。 アート・エディション部門設立。 サルヴァドール・ダリとの共同制作始まる。(悪の華、ライプニッツの十字架など) 外部アーティストとのコラボレーションも始める。 |
| 1970年 |
| 1970年代にCFC社(カンパニー・フランセーズ・デュ・クリスタル)の小会社となる。セザール「エクスパンション」共同制作を始める。 パート・ド・ヴェールと透明クリスタルの統合を試みる。パート・ド・ヴェールと透明クリスタルの統合を試みる。 |
| 1972年 |
| 現代応用美術国立センター展出品。 |
| 1975年 |
| 透明クリスタルにパート・ド・ヴェールの色ガラスを象嵌した「コッペリア」シリーズ制作開始。 |
| 1976年 |
| ジャック・ドーム(Jacques Daum)が没。 ピエール・ド・シェリゼ・ドーム(Pierre de Cherisey-Daum)が社長に就任。 ドーム(Daum)家、最後の社長となる。 ドーム(Daum)工房は、現在では、高級クリスタルメーカーとして、今日に至るまで、フランス、ロレーヌ地方、ナンシーの地で操業を続けている。 |